喜嶋先生の静かな世界  
森博嗣,講談社 (2010)


本作は大学で教員をされていた森博嗣らしい作品であり,語り手から見た指導教官である喜嶋先生の研究者としての生き方に焦点を当てて語られる.

私も研究を生業としているが,喜嶋先生の研究者としての純粋さには静かな感動を覚えざるをえない.目頭が熱くなる.学問には王道しかない,とおっしゃる喜嶋先生こそが,我々が社会との関わりの中で失っていった真の研究者であり,理想とすべき姿である.

だが,大学人として純粋であるが故に,悲劇がある.多くの研究者は40歳までには,研究者ではなくなるのだ.様々な雑務や講義,研究費獲得に時間を取られてしまい,学生の指導という形でなんとか研究に携わる程度になる.そのとき,真の研究者たらんさすればどうすればいいのか?

森は語り手を通して,こう述べる.
「一日中,たった一つの微分方程式を睨んでいたんだ.あの素敵な時間は,いったいどこにいったのだろう?」

私も本作を読んで,研究しかしていなかった修士の頃を思い出す.あのころの研究は純粋に楽しかった.人生で一番勉強した集中した時期だったと思う.一日中,数学で悩んでも,それが楽しかったし大切なのだという実感があった.あのとき垣間見た数学の美しさはどこにいったのだろう?

本作は研究者には,かつての純粋の姿を想起させるものであり,これから研究に携わろうとする学生には,その面白さと厳しさを教えるであろう.

なお,実は本作には元ネタとなった短編が存在する(まどろみ消去収録).短編の方がストーリィが短いだけ物語の印象は深いが,短編では語られなかった喜嶋先生の様々なエピソードが興味深い.



熊の場所  
舞城王太郎,講談社文庫 (2006)


舞城は元々はミステリー作家であるが,突拍子もないトリックも論理も碩学がないが,話の落とし方が巧く,ミステリーのもうひとつの醍醐味を味わえる作家のひとりである. なりより,舞城は流れるようなスピード感溢れる文体が素晴らしい.改行もほとんどせず一見読みにくいように思えるが,読み始めると一気に頭の中を舞城の文章が流れていく.この筆力はすさまじい.

本作品集『熊の場所』は舞城がミステリーから純文学へと枠を広げるきっかけとなった作品である.特に収録2作目『バット男』が素晴らしい.『バット男』は,社会的弱者に肉体的な危害を加えることでしか精神を保てない弱い人間と,どうしようなもいほどの馬鹿なカップルの救いようのない物語だが,舞城の表現している愛情と他者への攻撃性には,読者は共感を覚えてしまうのだ.

この物語の登場人物は馬鹿だけれど,みんな馬鹿にならないようにバット男に目を背けているだけに過ぎないのかもしれない.

他の2編,表題作の『熊の場所』は思春期の少年の持つ暗い感情と秘密という危うさを見事に表現していたし,『ピコーン!』の馬鹿馬鹿しいネタも面白い.

どの作品も適当な長さですぐに読める.まず,この一冊から舞城を読んでみて欲しい.



1984  
ジョージ・オーウェル,ハヤカワ文庫 (1972)


ジョージ・オーウェルが冷戦さなかの1949年に書いたディストピア小説の傑作である. '近未来'である1984年の超大国オセアニアの管理社会を描く.

本書で描かれる管理社会は当時のスターリン体制のソ連を模しているといわれており,結局,そのような体制は一部の小国を除いて失敗に終わったが,本書はなお重要である.特に'自由な社会'に生きる我々は,オセアニアの管理社会で重要な「新語法(ニュースピーク)」と「二重思考(ダブルシンク)」について考える必要があるだろう.ここではダブルシンクについてのみ紹介する.

二重思考とは,1人の人間が矛盾した2つの信念を同時に持ち受け入れることができるという、オセアニア国民に要求される思考能力のことだが,現実認識を自己規制により操作された状態のことである.オセアニアの党のスローガンのひとつは 「戦争は平和(WAR IS PEACE)」であるが,このようなダブルシンクは,たとえばブッシュの戦争のように我々の社会でも見て取ることができるだろう.

「2足す2は5である」(Two plus two makes five)

これは本書においてダブルシンクにおける「自由」をもっとも印象的に表すフレーズである.主人公は,党が精神,個人の経験や客観的事実まで支配するということに対して,「党が2足す2は5だと発表すれば、自分もそれを信じざるを得なくなるのだろう」とつぶやく.そして,ノートに「自由とは、2足す2は4だと言える自由だ。それが認められるなら、他のこともすべて認められる」と記す.これほど自由について端的に表現した言葉はあるまい.

しかし,物語のエンディングで拷問を受けた彼は,最終的には「2足す2は5である、もしくは3にも、同時に4と5にもなりうる」ということを信じ込むことができるようになるのである.

少なくとも我々は,現在,「2足す2は4である」と堂々と言えることを喜ぶべきなのかもしれない.そして,どのようにすれば,少なくとも1984年のような管理社会に陥らないようになるのか考え,そのため不断の努力が求められていることを忘れるべきではないだろう.

なお,本書は1998年に20世紀の英文小説ベスト100に,2002年にノーベル研究所発表の史上最高の文学100に選出されるなど、思想・文学・音楽など様々な分野に今なおな影響を与え続けているとされている.ただし,日本語訳では原文の新語法(ニュースピーク)で書かれる空虚な会話の恐ろしさを感じることができないのが,残念である.



薔薇の名前  
ウンベルト・エーコー,東京創元社 (1990)

記号学者エーコの処女小説であり,おそらく最高のミステリーのひとつである.週間文春は,20世紀のミステリーの第2位にこの作品を選んだ. また,西垣通はエーコーが『開かれた作品』の次に本作を執筆したとは,筆者にとっても読者にとっても幸せなことであったと評している.

本作は中世の修道院を舞台に,連続殺人の犯人を修道僧ウィリアムが追うというサスペンスであるが,中世のキリスト教社会を背景として,異端思想,反キリスト,神学論争,文書館と書物,迷宮と暗号,そして記号と事物を巡る考察が至る所に鏤められている.まさに記号学者らしい衒学の書である.特に,ラストでウィリアムが語る反キリストについての考察が秀逸である.宗教とは何か,寛容であるとはどのようなことかを考えさせられる.

そしてなりより,作中の「第五日目」の最後の一文に注目したい.その重み,悲しみを,是非味わって頂きたいのである.



ボッコちゃん  
星新一,新潮文庫 (1971)

日本SF御三家のひとりでショートショートで知られる星新一は,私がSFに足を踏み入れるようになったきっかけを与えてくれた作家だった.

星のショートショートは社会風刺でも知られるが,初期の作品はSFも多く,私は初期の作品の方が好きだったりする.そのため初期の自薦作品集て゜ある本作には思い入れのある作品が多い.特に『生活維持省』はディストピア物として出色の出来といえ,これを取り上げたい.

ディストピアというものはユートピアの反対語であり,そこは表面上,誰もが平等で秩序正しい理想的な社会だけど,実は徹底的な管理・統制により自由が奪われている社会でもある.あるいは全体主義的や共産主義的でもあるといえ,社会主義国家のプロパガンダする理想郷に近い.

このディストピアものとして有名な作品として,政治学の題材としても使われるオーウェルの『1984』や,バージェスの『機械仕掛けのオレンジ』が知られるが,本作『生活維持省』でも,貧困も飢餓も,犯罪も戦争とも無縁で,豊かに平和に人々が暮らす社会が描かれれている.これは人口爆発を人類が克服して,遂に手に入れたまさに理想的な社会であるが,そのためには語り手たち'生活維持省'の役人の'仕事'が…

ラストの語り手の科白が素晴らしく,ディストピアの本質を痛烈に描き出している.この後味の悪い読後感は,なかなか他の作品では味わうことができないだろう.

星新一には,この他にもディストピアものとして『白い服の男』があるが,コンパクトに纏められているだけ本作の印象は極めて強い.この一編のために,この本を買う価値があると言っても過言ではあるまい.

なお,本書に収録の『月の光』,『マネーエイジ』,『おーい でてこーい』,『最後の地球人』などどれも秀逸であり,本書は星新一の入門書としても最適であろう.



おもいでエマノン  
梶尾真治,徳間デュアル文庫 (2000)

リリカルなSF作家を挙げろといわれたら,ディプトリー・ジュニア,筒井康隆とこの梶尾真治が,ます思い浮かぶ.彼の代表作は『美亜へ贈る真珠』や星雲賞を受賞した『地球はプレイン・ヨーグルト』などであるが,僕は連作短編集である本書『おもいでエマノン』およびエマノン・シリーズを挙げたい.


学生時代失恋してフェリーで旅に出た語り部は,船内で'エマノン'(No nameの逆さ綴り)と名乗る不思議な美少女に出会う.そしてその13年後…

「誰にとってもおもいでって必要なものでしょう?」

「数時間も13年も私にとっては同じなの」

切なくて素敵なエマノンに惹きつけられたことを,僕は忘れない.そして,以来ずっと,僕はいつかどこかで彼女に出会う気がしているのである.

本書のイラストは星雲賞を受賞した鶴田謙二.彼のイラストもとっても素晴らしい.彼の描くエマノンにも'Spirit of Wonder'を感じじることができる.



星を継ぐもの  
ジェイムズ・P・ホーガン,創元SF文庫 (1980)

ホーガンの出世作である.一級のSFであり,そして一級のミステリーでもある.

月面で発見された死体は5万年以上も前のものだった…そんなミステリから始まる物語のラストはあまりにも鮮やかで,初めて読んだとき僕は衝撃のあまり外に走り出て,月を見上げたことを覚えている.SFでここまでの感動を覚えたのは,後にも先にもこの1冊しかないかもしれない.

また,本作には多くの科学者が登場するが,彼らが政治や国家という枠組みから自由に科学の仕事をする様子が,生き生きと描かれていることにも注目したい.

とにかくSF好きな人,そしてまだSFを読んだことない人,すべての人におすすめする作品.皆で月を見上げ,人類の歴史に,そしてこの星の行く末に思いを寄せよう.